キラリグッド/沁みることば
生死の苦海ほとりなし
2026-07-10
お盆になると、亡くなられ方々を思い、仏壇に手を合わせ、お墓参りをします。そして、自らの「いのち」について様々な思いを巡らせます。
親鸞聖人は、そのあり様について、高僧和讃の中で「生死の苦海ほとりなし」とお示しくださいました。
人が生まれてから死ぬまでの歩みを「苦海」、つまり苦しみの海にたとえたものです。しかも、その海には「ほとりなし」、すなわち岸が見えないとあります。人の人生は思い通りにならないことが多く、病や老い、別れや不安など、さまざまな苦しみに満ちています。努力しても報われないことがあり、愛する人との別れも避けることはできません。仏教では、そうした現実を見つめ、「人生は苦しみである」という事実から目をそらしません。
これらは、一見、「厳しさ」を表しているように思えますが、決して絶望だけを語るものではありません。
「人は皆、同じ海を渡っている」という深い共感を示す教えでもあります。
誰もが苦しみの海の中に生きているからこそ、お互いを思いやり、支え合うことができるのではないかと思います。
私が携わる児童養護施設でのある日のできごとです。
施設で生活をする5歳のけいた君。
お母さんが病気で亡くなり、施設にやってきました。
ある日の朝、幼稚園に登園する前、とても機嫌が悪そうで泣きじゃくっています。
職員のこうじさんが、声をかけますがおさまりません。
「けいた君、まずは落ち着こうか」と、こうじさんの手の指をロウソクに見立てて、吹き消すようにして、深呼吸をうながしました。
すると、少しずつおさまってきたので、コップにお茶を注ぎました。
「いっしょにお茶を飲もう、けいた君のコップには、氷が3個入っているよ」と、氷に意識するようにしながら手渡しました。
横に座って、いっしょにお茶を飲みながらクールダウンをし始め、泣き止んで氷をほおばり始めました。
「涙がでる時って、悲しい時やさみしい時、困った時なんだけど、けいた君の涙はどうしてでたのかな?」
「さみしい時だったから…」
「何が寂しくさせたのかな?」
「一人になったりすると寂しくなる…、ママのこと考えた…」
「そうなんだね」と背中をさすって、話を聴いていると、落ち着いてきました。
「それじゃ、いっしょに幼稚園に行こうか」と提案すると頷き、準備を始めました。
ふと、ママのことを思い出し、心の中が、悲しさや寂しさでいっぱいになってしまい、涙が溢れてきたのでしょう。
そんなけいた君に、丁寧に問いかけながら、思いを想像し、察し、慮って、寄り添ってくれたこうじさんがいてくれました。「泣き止もう」や「頑張ろう」ではなく、「そうなんだね」と背中をさすりながら、けいた君の悲しさや寂しさをそのまま受け入れ、共感し、一緒に背負ってくれました。
「涙」の字をよくみると、「氵」に「戻」るとあります。涙により、人は、自分を取り戻すのかもしれません。
また、「泣」の字をよくみると、「氵」に「立」つとあります。苦しみや悲しみにつまずき、倒れてしまったとき、人は、たくさん泣いて、また立ち上がって前に進むことができるのかもしれません。
でも、苦しくて悲しくてどうしようもなくて、一人では自分を取り戻せずに、立ち上がれないときもあります。そんなとき、そっと寄り添い、共感し、共に涙してくれる存在が必要です。
「生死の苦海ほとりなし」の後に、親鸞聖人は、「ひさしくしづめるわれらをば、弥陀弘誓のふねのみぞ、のせてかならずわたしける」と続けてくださっています。
老い、病、別れ、不安、そして思いがけないできごと等、人の歩みは決して平穏なだけではありません。まさに、「ひさしくしづめるわれら」であり、さまざまな苦しみの波に揺られています。
そんな私こそをめあてとして、阿弥陀さまの広大な誓願が、苦海を渡るための船となってくださるのです。
自分の力だけで迷いの世界を乗り越えるのではなく、「必ず救う」と誓われた阿弥陀さまのはたらきに身をまかせ、迷いのままに、いのちが救われていく教えであります。
お盆に際し、我が身を振り返らせていただきながら、そのいのちの尊さに手が合わさります。
南無阿弥陀仏。








